3月9日共同通信社編集委員太田正克さんに来ていただき「核と日本ー東京電力福島第一原発事故から8年ー」のタイトルで話をしてもらいました。参加者は62人で市内以外からの参加者もありました。講演の内容を以下にまとめましたので、お読みください。
2011年3月11日、東日本大震災が起こり東京電力福島第一原発事故が起こったが、この時、日本政府は原子炉の状態や周辺線量などについて詳しい情報を持っていなかった。
そのことを知ったアメリカ政府は3月16日に核特殊チームを日本に派遣、17日から19日まで空中測定システムと呼ばれる航空機モニタリング装置を使って、福島上空から線量を測定し、原発から約40キロ圏の放射能汚染マップを作成した。そしてこれを17日頃に日本政府へ提供したのだが、菅政権幹部が知ったのは20日以降で、一般に公開されたのは23日だった。この遅れのため無用の被曝をした人が数多くいる。
この特殊チーム派遣に関してアメリカのエネルギー省高官は「在日米軍は要員をどこへ派遣するかに心を砕いている。福島の場合は放射線量の実測は非常に重要だった。要員をどこへ送れば安全で何時間なら活動可能なのかがわかるから」と言っている。これは日米核同盟の実相というべきだが、日米核同盟とは何かを歴史をたどって振り返ってみる。
米軍部は1950年代、中米から核兵器を領土内に大量配備したNATO諸国と同様、日本でも、核兵器を配備してアジアにおける「核の傘」の構築を図ろうとした。
しかし日本は広島、長崎での被爆経験をもち、また1954年にはビキニで漁船が被曝するということもあって、核は全体に持たないという意識が強かった。
日本に核を持ち込み、陸上に配備、所蔵しようとする米軍部の動きは1954年に具体的なものとなるが、日本の反核世論の動向や保守政権に与える打撃を憂慮した国務省があきらめた。
そのかわりにといって良いだろうが、1945年末から55年初頭にかけて沖縄本島への核配備が始まり、核配備は1972年の本土復帰まで続いた。
極東での核戦力投射拠点として「核の傘」の一角を形成した沖縄には、ピーク時に約1200発以上の核が貯蔵され、極東有事には三沢、横田、板付の各米軍基地へ搬入し、核攻撃を遂行する段取りになっていた。こうしたことが、現在の沖縄問題につながっていると言えるだろう。
日本への核持込みは断念せざるを得なかったが、一方、核を搭載したアメリカの艦船が日本へ寄港するということは常態化された。
1953年、米空軍「オリスカニ」が横須賀に寄港したが、この船に核が搭載されていたことははっきりしている。「オリスカニ」の寄港は朝鮮半島における共産勢力の動きを抑止し、韓国を守る「核の傘」の役割を担っているとされた。1973年から横須賀を母港とした空母ミッドウェーも核を装備していた。
空母だけでなく日本に寄港した核巡航ミサイルも核兵器を装備していたし、1967年以降は日本に立ち寄る海軍補給艦船にも核兵器が搭載されるようになった。
このような冷戦中、頻繁に日本に寄港し、日本領海を通過していた艦船は核を搭載した核艦船であり、東アジア地域での「核の傘」を構成する要素だった。しかし日本の歴代保守政権は「核を持たず、つくらず、持ち込ませず」の「非核三原則」を国是とし、核艦船の寄港を断じて受け入れないとの政治姿勢を、表向き貫き続けた。したがって各装備した艦船が大手を振って「非核」を標榜する日本の領海内に入るには政治的なからくりが必要だった。それが核密約である。
1960年段階で日本政府は「核の『持込み』つまり『イントロダクション』には艦船機構などを通じた核の一時立ち寄りは含まれず、搭載された装備の種類に関わらず艦船の通過、寄港は事前協議の対象ではない」とする米側の解釈を認知していたことがわかっており、これは日米間で密約の形でかわされていたと考えられる。
2010年3月、日米密約問題を調査した外務省有識者委員会は、報告書を岡田克也外相に提出した。この委員会は民主党が政権をとることになってはじめて設けられたものだった。報告書は「核艦船の寄港容認に関して、60年の安保改定時、日本側が『寄港は持ち込みにあたらない』との米側解釈を認識しながら、意図的に明確化を回避する暗黙の合意の萌芽があった」と分析。また「大平正芳外相がライシャワー駐日大使から米側解釈を説明された63年以降、広義の密約が確定していった」としています。
朝鮮有事に米軍が事前協議を経ずに在日米軍基地を使用できるとの合意をめぐっては、安保改定に向けまとめられた「朝鮮議事録」の存在が確認された。
沖縄への核持込みについては関係文書が佐藤栄作氏の自宅から発見されたが、外務省の関与が確認できず、文書が私蔵されて引き継がれていないため「密約とは言えない」とされた。しかしこの件について、記者会見した岡田外相は「一般常識から見れば密約としないわけではない」と語っている。
この密約に見られる日米関係は今も続いている。しかし今、日本が東西冷戦時代から受け入れてきた「核の傘」について、その政策継承の是非を根本的かつ包括的に検討していくことは、日本政府にとって喫緊の課題である。そしてそれは核廃絶を希求する被爆国の人類史的な使命でもある。
参考文献「日米核密約の全貌」太田昌克著・筑摩書房